明治の石積えん堤
3年前のこと。
県下に現存する明治時代の石積み砂防えん堤について調べている。
ついては川上の石積みえん堤の場所やその歴史についてお話を聞かせて欲しい、と越前市の環境文化研究所なる団体からコンタクトがありました。
なんでも明治期の石積えん堤は、重機のない時代に人の手によって作り上げられた歴史的文化遺産といえるもので、長い間防災機能を担ってきたとても貴重な土木構造物なのだと。
それまでも小さいのから大きいのまで、複数の石積みえん堤が山中の谷間に残っているのは知っていました。けれどデカさと全体の見易さでは近年のコンクリートえん堤の方が存在感が伝わりやすいということもあって、特に興味の対象にはなっていませんでした。
「明治の石積えん堤…」、いろんな趣味の人がいるもんだ、というのが、失礼ながらその時の正直な気持ちです。
その時に福井県の砂防沿革大要のコピーや、環境文化研究所が関わっておられる南越前町の「アカタン砂防」の資料等をいただき、以降は互いに情報交換を約束しておりました。そのうち川上の砂防の写真を撮りに回ろう…、そんな感じで。
明治の二大砂防えん堤
さて川上の石積み砂防えん堤の記録は、というと…。
いただいた資料によると、明治期に入って相次いで発生した土砂災害に対応するため、福井県下では明治27年度に初めて大野市の鬼谷川において石積み砂防えん堤が着工されます。明治3年の洪水により相当荒廃したというこの川上にも、明治28年度に予算が付き、「佐分利川」とその支流「滝巌谷川」にそれぞれ1基ずつ砂防えん堤が着工されたようです。(工費500円)これはちょうど日清戦争が終わった頃のこと。
ところが翌29年の水害により、出来たばかりのえん堤のうち一つは破壊、もう一つは土砂により埋没してしまいます。下手をしたらまだ完成していなかったのかもしれません。ここ川上における砂防事業にとって、ツキがないというか何とも幸先の悪いスタートとなったことは間違いないでしょう。
明治29年の水害後、32年になってようやく再び予算が計上され、滝巌谷川の薦池(コモイケ)において砂防工事が着工、同34年には佐分利川の妻谷尾・鳥岩でも砂防工事が着工されます。(工費6600円)
滝巌谷川流域の砂防工事はここ川上における砂防事業の主眼として毎年継続して行われ、明治35年にようやく完成となりました。(ちなみに滝巌谷川は、現在の田井谷川のことだと思われます)
日露戦争はこのあと明治37~38年の出来事になります。
(続く)
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