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2009年8月19日 (水)

密通と逢瀬の谷

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うすが谷から見上げる宝尾の山(map:D-2)

 

「盆の14〜16日の間は岸谷に立ち入るな」という言い伝えが、上方にあると聞きました。
立ち入りを禁ずるその理由は分かりませんが、岸谷の奥には『孫左の念仏堂』があったと言われています。

 

このことを古老に訊ねたところ、岸谷の土師と呼ばれる辺りに「土師庵(どしあん)」という古色蒼然とした小さな平地があって、そこに尼寺があったと言い伝えられているそうです。なんでも昔むかしその寺の尼僧が男の僧と恋に落ち、思い詰めた二人は添い遂げたい一心で寺に火をつけ出奔してしまったのだそうです。

付近の小字名は『密通谷(みつだん)』、いかにもな地名です。谷の少し下流には合瀬ヶ谷(おぜがたん・逢瀬ヶ谷?)なる谷もあり、二人の密会の場所だったのかも知れません。

土師庵の背後は宝尾の山。尼僧と恋に落ちたのは宝尾の僧だった可能性もあるわけです。この山中を恋に焦がれた寺僧が夜な夜な麓まで通いつめていた・・・などと、ちょっと空想を逞しくするだけで、何の変哲もない谷の景色もまた違って見えてくるのではないでしょうか。

 

今に残る土師庵という地名から、尼寺はかつてそう呼ばれていたと考えられます。念仏堂はその焼け跡に後日建てられたのか、もしくは土師庵の別名なのか。

10年程前まで山裾に石仏が並んでいたということですが、現在はその場所に作業道がつけられ、石仏はどこかに遷されたのか重機に踏みつぶされたのか…。

跡地のあたりを見回しても往古を偲ばせるようなものは残っていませんでした。どうやらひと足遅かったようです。

宝尾に関係するお寺だったのか、あるいは六苗六ヶ寺のうちのひとつだったのか・・・。興味は尽きませんが、今となっては知る術もありません。

 

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土師庵跡地(map:D-3)
近年つけられた作業道はここまで続いている

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作業道の工事で露出していた炭焼きの窯跡
土師というからには、ずっと昔この辺りは土器生産の場だったとも考えられます。

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うすが谷の水田跡

 

Dosi_web
小さな谷がいくつもある岸谷
これらの谷にもちゃんと名前がついている

山から次第に里人の足が遠ざかるうちに、やがてこれらの谷の名前も忘れられていくのだろうか

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密通と逢瀬の谷を参照しているブログ:

コメント

本日はわざわざご訪問ありがとうございました!

毎回楽しく拝読しておりますが、今回も出色ですね。
「密通と逢瀬」…ロマンあふれるお話ですねえ。

以前読んだ民俗学の本(池田弥三郎「性の民俗誌」)に面白いことが書いてありました。
男が女性を訪ねる妻問いの逆で女性が男性を訪ねる風俗が全国にあったそうです。福井や京都でも報告されているようなので、その名残かもしれません。どちらかが訪ねるだけでなくお互いにどこかで待ち合わせることもあったはずです。大変興味あるお話でした。

丹波よいとこ 女のよばい 男後生楽(ごしょうらく) 寝て待ちる

古和木上林や 女の夜這い 昼のさなかに 戸が閉まる

…というのもありました。《ふるさとへの絵手紙:公民館(木炭倉庫)七》

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