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2009年7月 1日 (水)

お風呂(四)

Furo_04
雨が続くと風呂に水を張るのが大変であった。

其れで茶釜の湯を洗面器にうつして顔や体を拭った。

風呂の代わりにはならないが、さっぱりした。

昔しだから、テレビもラヂオも無く

ねるのには早いし、退屈で弱った。

豆の炒ったのと、かち栗を食って

古い家の光を見てねることにした。


つづく
H17.6.26 善琢

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コメント

 いつも、何時も、素敵な写真と解説を発信して頂き、厚くお礼を申し上げます、
 先達ての「桜谷の風景」里山の雨に濡れた新緑は、やはり、絵になります。季節を思わせるしっとりとした霧雨に満足げな樹木の息吹が象徴的でした。
 こんな様子も一見、乱雑に見えても摂理に迎合した見事な自生美を醸し出しています。
あたかも、万物の旺盛な営みと、その観照に応える術を十分に心得ているかのように、悠然と生気と美の脈動を、能動的、躍動的に、また、観念的にも伝えてくれます。
 かつては、何処にでも見られた里山の原風景も、その存在意義は希薄に際限のないこの頃ですが、東京でも、もう、限られた地域に遠慮がちにひっそりと、残影のように見せるのみとなりました。豊かな自然の真価はいつまでも残して欲しいものです。
 そうそう、蛍の写真も嬉しく拝見いたしました。
先日、三森に帰省いたしましたとき、葦の群生から湧き出すように蛍の乱舞の様子が童心の回帰を駆り立ててくれました。
過酷な環境にいまなお生き延びる生物の強靭な執着と不思議な神秘に感動をあらたにしました。
 こちらでも、かつては彼方此方の小川に童心を魅了したものでしたが、都市化の介在でしょうか、もう、郊外ですらすっかり見られなくなりました。
 昨今は、ただ、時代の流転を侘しく傍観するのみで、もう、廻ってくる季節の営みは遠い里山に縋る曖昧な願望のみとなりました。
これからも、素敵な風物詩を発信して頂きますようお願いいたします。ありがとうございました。

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