宝尾の宝篋印塔
六波羅探題陥落の報を受け味方が次々脱落、あまつさえ敵方へ寝返る中、最後まで主君に付き従った79名の一族・忠臣の名が刻まれています。
「宝尾にある先祖の墓参りをしたい」という方がいる。
ついては宝尾にあるというその墓まで、その方を案内してもらえないだろうか…
というご相談をN女史より受けました。
お名前を尋ね、場所の見当がついたのでお引き受けし、11月26日の土曜日、宝尾までガイドしに行ってきました。
目的地は宝尾権現の参道脇にある古い宝篋印塔。
川上の櫻井家の祖、櫻井権正兼保が建立したと伝わるものです。
依頼者はこの櫻井兼保のご子孫で、昔川上から転出された本家筋(喜右衞門)の方でした。同行はN女史に仲介された高浜のモンコ氏。
櫻井氏は何度か宝尾へ奥さんと2人で登ることを試みられたそうですが、道が分からず、あまりに厳しい斜面行を強いられた奥さん途中でブチ切れ。テコでも動かなくなり、結局辿り着けず終い。困り果てて山の会のモンコ氏に同行を頼まれ、モンコ氏は川上の地理と山道に明るくないので同じ山の会のN女史(川上在住)に頼み…という経路らしい。
さて、名越(なごえ)時有という名をご存知でしょうか。
鎌倉時代末期の武士で、従五位下左近将監・遠江守・越中守護。
鎌倉時代、執権として権勢をふるった北条氏の有力支族で、北条時有とも表記されます。
櫻井権正兼保はこの名越時有の譜代家臣でした。1333年の鎌倉幕府滅亡の折、主君から嫡子〝宗女之助〟を託され、自身の嫡子〝丹宮〟を宗女之助の身代りに残し、越中からこの地へ落ちてきたと伝わっています。(櫻井名字先祖伝記)
主君名越時有は、一族の女房子供が海中へ身を投じるのを見届けたあと、最後まで付き従った家臣達と共に城に火をかけ自刃して果てました。
一方主君の遺児を連れた櫻井兼保は、三方郡の坂尻、名田庄の納田終を経てこの川上に辿り着き、ここに居を構えます。地縁のある九州探題や各地の守護らに応力を頼み、再び天下をひるがえして名越の家を立てよ、との遺命を受けて当地に潜伏していたのですが、宗女之助は2年後の建武2年(1335年)6月に熱病に罹り、翌7月に病没してしまいます。
同じ頃、信濃では得宗家の遺児北条時行を奉じて中先代の乱が勃発。これに呼応して越中でも名越時有の遺児〝名越時兼〟が挙兵しました。名越時兼は杉本城を拠点に新政に不満を持つ武士達を糾合、三万余騎を率いて上洛を目論むも加賀・越前勢に阻まれて敗北し、大聖寺城にて討たれます。
これが1335年の8月のこと。
奇しくも同年のほぼ同時期に亡くなった名越時有の遺児〝宗女之助〟と〝名越時兼〟
時有には9歳と7歳の男子があったということですが、母子共に入水したのではなかったのか?
ひそかに落ちのびた宗女之助が病没したのなら、その同時期に越中で挙兵した〝名越時兼〟とは?
このあたりの事について以前から疑問に思っていたこともあり、当日は櫻井氏に初めてお会いして挨拶もそこそこにお訊きしたところ、越中で挙兵した名越時兼とは、先祖櫻井兼保が身代わりに残した嫡子丹宮であるとのこと。北条氏の通字「時」と実父兼保の「兼」から〝時兼〟と称したというのです。
櫻井家に伝わる文書「櫻井名字先祖伝記」によると、宗女之助が亡くなる4ヶ月前の3月、故郷から兼保の妻子が訪ね来て、落城の次第やその後主君らの怨霊が出ることなど、越中の状況を伝えたとされています。
これは想像ですが、妻子が訪ねて来たというのは、近々信濃の挙兵に呼応して越中でも蜂起する段取りであるから、急ぎ宗女之助の帰還を請う知らせであったのかも知れません。しかし宗女之助は熱病に倒れて帰還叶わず、やむなく身代わりの丹宮が、名越時有の遺児〝名越時兼〟を名乗って挙兵した…。
そんなことを考えながら、ゆっくりと時間をかけて宝尾まで登り、目当ての宝篋印塔まで無事たどり着きました。(宝尾は相変わらず竹が倒れまくっていて歩行困難!)
櫻井氏は街の方なので山道はまったく慣れておられない様子。もっと若い時に一度案内されて来たときは、宝尾に着いた途端に案内人があちこち勝手に見に行ってしまい、一人竹藪に取り残されて相当心細い思いをされたとのこと。
そのおかげで道中さんざん「バラバラにならないでくださいよ、くれぐれも皆見える範囲で動いてくださいよ、お願いしますよ…」と何度も何度も釘を刺されました(笑)
名越時兼(櫻井太郎時兼)の墓を求めて大聖寺城まで行かれたそうですが、残念ながら墓は見つからず。名越時兼の名だけが今も残り、身代わりとなり命をかけて立った櫻井時兼の名は歴史の間に消え去りました。この事に少なからず寂しい気持ちを持っておられるご様子でした。
【看板の文】
名越太郎時兼(幼名宗女之助)の墓
「一三三三年に越中から川上に落ち延びるも熱病にてこの地にて一三三五年歿す 櫻井権正兼保が墓を建立 越中にて身代りとなりし櫻井太郎時兼(幼名丹宮)は北条時行に呼応して三万騎にて挙兵するも(中先代の乱)大聖寺城にて一三三五年討死。そっちの墓は不明」
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