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2010年2月11日 (木)

「コト」と「クマビキ」

Kumabiki
昭和30年代のクマビキ(漢字で書くと“熊牽き”)
当番の家で行った最後のクマビキ思われます
現在では70〜60代の方々

“コト”は二月十五日頃に行われた行事で

若者講とも言ったようです。

(旧歴一月十四日の行事を月遅れで行っていた可能性あり)

まず川上の若い男衆(15〜25歳、基本的に長男のみ)が、

その年の当番の家に朝から集まり、

ワラで大きな蛇を作ります。

区ではこの蛇のことを“クマビキ”と呼んでいました。
 

蛇の頭部は丸くしたワラを束ねて作り、

耳は二枚の琵琶の葉であしらいます。

尻尾の先には亀を模した桟俵が付けられました。

蛇の全長は長いもので4mほど。

完成後は区内から魔を追い出すために、この蛇を掲げて

集落の上の方から下側の境へ練り歩き、

上方・中村・下それぞれの境に木札と一緒に掛けられます。

 
その後若者達は当番の家に戻って餅を搗いたり、

用意したおかずを肴に座敷で宴会を始めます。

この宴席で使った箸を「コトクタ!」と唱えて

屋根の上へ放り投げる慣わしがあったそうです。

去年NHKで放送していた『坂の上の雲』で

餅食い競走のシーンがありましたが、

そういう類いのこともやっていた様子。

この宴は大抵夜を徹して行われ、当然ながら

悪酔いする者も続出しました。

そこら中でゲーゲーやられるのに困り果てて、

家の人が座敷にたらいを置いておいたという話や、

翌日ひどい二日酔いで中学校に登校したという話も・・・。

おおらかというか律義というか、

今なら多分休むような気がします。

 

これは女性に聞いた話ですが、

当時村の娘さんたちは農作業のできない冬の間、

お寺に集まって裁縫を習っていました。

そこへコトで出来上がった若者たちが酒をぶら下げ

よく押しかけて来たそうです。

その話しぶりからは、まんざらでもなかった様子。

 
元々は上・中・下の三区別々に行っていた『コト』ですが、

出征で村の若者が減少すると合同で行われるようになり、

戦後旧公民館が完成して以降はそこで行われました。

若い男が何人も集まって堂々と一晩中騒ぐわけですから、

それが慣習とはいえ当番の家の人は

たまったものでなかったはず。

公民館に場が移ってほっとしたのでは。

この『コト』も昭和38年頃を最後に行われなくなりました。

 

Koto_02 Koto_01
中村のコト(善琢さん家の座敷と思われる)

 Kifuda_3
蛇と一緒に立て掛けられた木札は、だいたいこんな内容
中村などはわりといいかげんだったのか、書くべき内容を忘れてしまい「奉納」とだけ大書きして済ませた年もあったようです

 

大般若経が出て来たのでついでに・・・

大般若経箱書
「川上村内の什宝の竺典壱百弐拾巻は、龍(清源寺)華(歓喜寺)両山の内隔年に預け置くものなり。明治三年庚牛仲穐初七(九月七日)古今未聞の疾風暴雨、雷捲電奔、山崩れ谿埋まり、泥砂村落に溢れ、潰れ損じる民屋二十余宇、流亡する者八員なり、田畑山林等は十にして七、八は流失す、この経蔵其の難に羅りて浸漬す。因って村中の緇素(僧侶と住民)衆議して、大堂の傍に経塚を築き、なお美なるもの十巻を止めて壌災鎮護の妙典となす者なり。明治七歳次甲戌首春望日これを識す」
右の箱書によって明治三年の水害の大要を知ることができる。残存の経巻は宋版であるという。(郷土史大飯:昭和46年発行 より)

 

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コメント

当地の古い資料をみてもキツネガエリ、蛇による邪払い、若者講、お経回しなど共通する行事がたくさんみられます。

同じ文化圏だったのでしょうか…

講というのは平安、鎌倉くらいからあったようです。
上流階級が夜通し談話、飲食していたものが後世庶民にもひろまったようです。

なつかしく貴重な資料の掲載ありがとうございます。
夜中に寝ている顔に墨でひげをかいたことが昨夜のことのように思い出します。

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