「狐がえり」と「コト」(二)
狐狩(全村)
陰暦正月十四日の夜、村内の壮者は宿元(村の主なるものが輪番に宿元となる)に集合して、一同が勢揃をして鉦太鼓で囃しつつ、
「狐のすしは七桶にながら 八桶に足らぬとて 狐狩やんれい」
「われやどこに祭るぞ 若宮祭るとて 狐狩やんれい」
と合唱して村内を巡り、後祝盃を挙げる風がある。
これは昔若宮権現に狩の獲物を献じた遺習である。
(福井県の伝説 昭和48年復刻版 P629より)
この『狐狩り』、若者あるいは子供たちが鐘や太鼓を
鳴らしながら集落を歩いて、悪さをする狐を村から追い出し、
地域によっては、その過程で家々から正月の松飾りを回収し、
どんど焼きで焼くのだそうです。
正式には『狐狩り』ですが、歌の中に“狐がえり”とあるので
地区や人によってそう呼んでいるフシがあります。
『コト』は上・中・下のそれぞれで行う行事でした。
このことから、川上の上方では父子区と同様に『狐がえり』と
『コト』が一緒に行われ、下条と中村では同じ日に
『コト』だけ行っていたのだと思われます。
もっと昔は他所と同じように『狐がえり』も
一緒に行っていたのかも知れませんが、
川上ではこの事情が原因で『狐がえり』と『コト』の記憶が
あいまいになっているのかな、と想像しています。
また、別々で行っていたコトも戦中から
合同になった聞きました。
狐がえりの日は父子も岡安も1月14日。
川上のコトは旧歴の2月15日だったそうですが、
もしかすると古老の記憶違いで、明治以降は新暦の
2月15日あたりに月遅れで行っていたのかも知れません。
盆踊りも上・下別で行っていたと言いますし、
墓地もそれぞれ別。
こうなると昔は上方と中村・下条は別の村だったと
言ってもおかしくないような印象を受けました。
そんなこんなで60年前の行事の記憶を辿るのにひと苦労。
最初に加助さんに訊きに行ったのが半年前、1月14日に間に合わそうとあわててまとめたせいで、まとまりの無い内容になってしまいました。
長くなったので、もう一つの行事『コト』についてはまた日を改めて・・・。
狐狩りの追記:鉦太鼓を叩いて回るほかに、選ばれた一人が山に登り、そこで区内で評判の悪い者の悪口を言うことも所によってはやっていたそうです。これで村の良俗を保っていたそうな。
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