新鞍神社と川上のルーツ?
区内の最も下手にある新鞍神社
大昔、佐分利谷最奥のこの地を終の住み処と見いだし、居を構えた我々の祖先はどんな人々だったのだろう。手掛かりや伝承などがあるでなし、これまで漠然としたイメージすら持てなかったのですが、資料を眺めていたら新鞍神社のルーツについて面白い仮説がありました。
指定村社新鞍神社は、「若狭國神階記」に式外正五位賊椋(トクラ)明神と見える御社であり、大飯郡内二十ヶ社中の一社である。社記によれば往古には人身御供の習わしがあり、後にいたり陰暦正月十三日の夜半、人の寝静まる丑満時に神酒を献する習わしに代わっており、深更神酒奉献の神事はいまに続けられている。境内四〇二坪、氏子は一百八件、例祭は九月十日である。
案ずるに敦賀郡東浦村阿曽の式台社阿蘇村利椋神社(トクラノカミヤシロ)との、つながりをもつものではなかろうか。内外海村犬熊の指定村社得良(トクラ)神社も同訓であり、越前の東浦人らが渡海して若狭へ定住した集落なのであろう。得良神社に関しては社記に宝治元年丁未(1247)五月利椋明神を勧請した由が記されているから川上賊椋神社と同ケースと考えられる。
新鞍神社は新利椋神社とも解せられるものがあり境内社としては次の御社がある。
(1)祭神 火之夜芸速男神 愛宕神社
(2)祭神 豊受姫命 稲荷神社
(3)祭神 大山祗尊 山神神社
(4)祭神 誉田別尊 八幡神社(字三森鎮座)
(若越郷土研究 第三十六〜四十巻:杉本壽 大飯郡旧佐分利村 宝尾・大田和・上津より)
杉本氏よると、内外海の犬熊にある得良(徳良)神社がそうであるように、阿曽の利椋神社をこの地に勧請したのが新鞍神社の始まりなのではないか、というのです。
新鞍神社には賊椋、盗掠、棟梁、阿多倉などの字を当てた古い記録があり、明治になって「新鞍」に一定されたと以前書きましたが、「盗掠」などは確かにそのまま「トクラ」と読めます。
「利椋」が「新利椋(アトクラ・アタクラ)」の意で「阿多倉・新鞍(アタクラ)」になった…、ううむ、なるほどなあ。
残念なことに新鞍神社のなりたちは記録にないため、勧請についての真相は分かりません。「賊椋明神」と記録されている神階記が944年の物なので、少なくともそれ以前のことになるはずです。「宮当講由来」には神社行事の由来について“天武天皇の御代”(673〜686)との記述があるので、もっと古い事なのかも知れません。その当時はまだ「トクラ」と読んでいたのでしょうか。寛永四年(1627)の國中高附には「阿多倉大明神」とあるので、この頃にはすっかり「アタクラ」に変っているようです。
敦賀から海を渡ってやってきた東浦の人々がこの地に里を拓き、故地の氏神を勧請して定住した。
新鞍神社例祭の山車が船を模しているのはこのためでしょうか?
ちなみに元々の例祭の日は、佐分利谷の他の神社と異なる9月10日でした。いわゆる旧暦八月一日の八朔祭で、踊り納めの宵祭りとして親戚縁者を招待し夜店も境内に並び、毎年が大祭りのような賑わいだったといいます。
ところで、犬熊の神社は『得良』『徳良』の字があてられている一方、川上は『賊椋』『盗掠』と酷い字が使われています。勧請が事実とするなら、このあたりも何かいわくがありそうです。
式内社 越前國敦賀郡 阿蘇村利椋神社
さて、新鞍神社のルーツではないかとの説がある利椋神社は、敦賀市阿曽字堂ノ上の利椋八幡神社にあたります。阿曽と言われてもあまりピンとこないかもしれません。敦賀から北陸自動車道を北上していくとすぐに杉津PAを通過しますが、あの辺りの海辺の集落です。急峻な山塊が直接敦賀湾に落ち込み、海に接した谷間に集落が点在する、そんな環境の一帯です。
海に面した阿曽の集落。背後の斜面には棚田が広がっています。
左の写真中央の鞍部が利椋峠(峠の向こうは挙野区)
この利椋神社、元々は現在の場所から東に2kmほどの利椋峠にありました。
ところが明治になって阿曽隧道が開削、さらに嶺北と嶺南を結ぶ春日野道が開通すると、それまでの峠道が廃止され人気の途絶えた場所にある神社となってしまったようです。
そんな経緯もあって明治40年に集落内の八幡神社に合祀され現在に至ります。大杉と鳥居が残っていたという山中の元地も、今は痕跡を留めていないとのこと。創祀年代、祭神共に不祥のため、利椋明神を祀るとされています。
峠へ向かう途中、棚田の傍らにあったお地蔵さん。
畑で作業されていた奥さんに峠と神社のことを尋ねてみましたが、ご存知ではありませんでした。
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