おにぎり持って山歩き(1)
登り口で記念撮影。参加者は20人+1匹(安左の兄さんは話を聞きつけ京都から駆けつけてくれました)
4月19日の日曜日、ここでも告知していました「おにぎり持って山歩き」に行ってきました。目的地は宝尾です。
事の起こりは菅の坂の記事を作っていたとき、中垣さんとの「川上の婦人方にも山歩きしたいという方がおられるので、今度はおにぎりでも持って行きたいですね。」というメールのやりとり。そこで今年の春になったら6〜7人くらいで宝尾に行こうと計画を立てていました。宝尾なら道の状態も良く、手ごろな距離です。
「折角だから『こんな活動してますよ』と川上の人にも知ってもらった方が良い、他にも登りたい人がいるかも知れない。」との区長アドバイスで、川上の全戸にも行程表を配らせてもらいました。
で、当日の朝。心配のタネだった天気は文句なしの快晴。
予定より3〜4人くらい増える程度かな、と集合場所の公民館へ着いてみると・・・、なんと20人+1匹が参加するとのこと。一人ではなかなか行きづらい場所だけに、『いつか行きたいな』という潜在層が割とおられたようです。
さすがにこの人数だと車に分乗するわけにもいかないので、公民館から嶽間谷の登り口まで歩きです。工エエェェ(´д`)ェェエエ工 という声も一部上がりましたが、それは聞かなかったことに。
ぽかぽかした陽気の中ぶらぶら歩くのも、たまにはいいじゃないですか。
一行は徒歩でゾロゾロと嶽間谷へ。
登り口へ到着し、先に来ておられた方と合流して記念撮影。
(一番上の写真です。前回の宝尾記事のY氏も来てくださいました、感謝。)
少し休憩していよいよ山道へ。かつて宝尾の人達の水田だった『だんの下』、『だん』の脇を通って尾根を目指します。今は植林され光の差し込むことの少ないこの場所も、かつては黄金色の稲穂垂れる田圃で斜面はさぶい山でした。戦争中は男手が無いため、ここで収穫した米を宝尾の集落まで運び上げるのに婦人会が協力したそうです。
いつ頃の写真かは不明ですが、まだ田圃だった頃の『だん』
高齢の方もおられるので、登りはのんびりゆっくりと進みます。このお陰でずいぶん楽でした。
9:30から登り始めて宝尾の苔紋へ10:30に到着。途中の休憩は3回でした。
苔紋から権現跡へ進むのですが、倒れた竹がそこかしこで進路を妨害します。じゃまなものはナタやガンドで切ってガンガン脇へどけていきますが、少人数ではキリが無い作業です。権現さんへの階段跡も無数の竹が倒れ込んでいて、横の斜面を歩いたほうがましといった状態。
権現さん登り口にある宝篋印塔の説明をされるY氏。
少年時代、この下を掘ったら小さな瓶が出て来たとのこと(中身はカラッポだった)
拝殿跡で一服 倒壊前の宝尾権現(川上分校遠足/1980年)
階段を登りきると権現跡、ここで全員集まってしばらく休憩。その間、宝尾山縁起に書かれているこの地の歴史をY氏が説明して下さいました。
まだ昼には早い時間だったので、見晴らしが良い『北東の平地』まで行ってから“おにぎりタイム”ということに決定。
『北東の平地』は、参道を降りたところから日置峠へ向かうユリ道の途上にある平場です。大体宝尾集落跡から峠の中間地点になります。竹だらけの参道をまた降りて行くのは気が進まなかったので、権現さん横から峠道へ合流する近道を降りていきました。
歩き出して10分もすると『北東の平地』に到着。
東側の一部が地滑りで消失してもなお、かなりの広さがあります。昔はここにも何らかの建物があったのでしょう。Y氏はここに“三輪堂”なる、参拝客をもてなしたという辻堂があったのではないか、と考えておられます。
宝尾集落跡は植林と密生した竹のおかげで、見晴らしは全くといっていいほど良くありませんが、ここは絶景。鹿野※辺りがよく見えます。シャガの群生する谷側は恐ろしい角度で落ち込んでいて、正直あまり近づきたくありません。
※鹿野:佐分利谷の集落の一つ。佐分利川流域のほぼ中央付近にあります。昔むかし、この鹿野辺りまでしか人家が無かった頃、既に宝尾の山上には大集落があったという言い伝えが残っています。鹿野には宝尾の寺に米を納めるための水田があって、その田圃は永く女人禁制だったと云われています。
さて時刻は11:30を少し回ったところ。それぞれ好きな場所に腰を下ろして早速『おにぎりタイム』。
「汗かいて水たくさん飲むから塩強めに」「味噌塗った焼きおにぎりも希望」などと、早朝から妻に小うるさく注文を付けたおにぎりは大変美味しゅうございました。また宜しくお願い致します。
枯葉の敷かれた広場に自生していた“フデリンドウ”(多分…)
かわいらしい花をつけていました。とても小さいので踏まないように注意して進みます。
「これ、アケビや」と教えてもらいました。年配の方と山に行くと、木の別名や植物の名前が分かるのがいい。
北東の平地に群落を作っていた“シャガ”。中国原産で、かなり古い時代に日本に持ち込まれたとされています。種子でも球根でもなく、根茎から匍匐性のストロンを伸ばして増えていくので、鉢植えでもなければ海を渡って持ち込むことはできません。大陸と日本との航海が命がけだった時代、僧や教典と一緒に海を渡ってこの宝尾に持ち込まれて根付いたのだ…、などと勝手な空想を広げながら眺めると味わい深いです。増え方が増え方なだけに人の手が入った所に生えている植物ですので、ここにも人の生活があった証拠と言えるのではないでしょうか。
(長くなるので今回はここまで。まだ続きます)
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