« 消えた古代山岳寺院の伝説地に登る(1) | メイン | おにぎり持って山歩き(1) »

2009年4月20日 (月)

消えた古代山岳寺院の伝説地に登る(2)

Takarao_map2
従来からの位置図を元に、Y氏による実地調査と考察を加えた周辺図です。(おなりのだんの位置については検証の必要あり)

Andara_3 Mukandara_2
あんだら(遠見の利く庵“歓喜閣”があったという)とむかんだら

Odara_dan Onari_dan
本堂屋敷他五棟があったという「尾だら」と隣の平場「おなりのだん」 


 少し気になる天候になってきた。すぐに雨の心配はなさそうであるが、雲行きがあやしい。

 しばらく前進すると、突然目の前に広大な平地が現れる。
ナレーターの坂口さんから「オーッ」と声が出る。あまりにも広大な土地におどろいたのか?
「ここが古代寺院の跡ですか」と聞かれ、そうなんですとうなずく。
ところが、広大な台地にカメラをセットし、撮り始めると同時に急に真っ黒な空になり、雨が降り出した。
まるで私たちの進入をさまたげるかのように・・・。
急いで取材を中断。藤田さんはカメラのセットを解除する。三人は木陰に逃げ込んだ。

 雨宿りすれども、雨脚はひどくなるばかり。
そのうち雷雨になり稲光発生、暗黒の世界に突入したような状況だ。二回ほど稲光と同時にドカーンと大きな爆音がとどろき、体が縮こまる思いだ。頭の上から足の先まで雨にたたかれ、衣服からは雨水がしたたれてきた。体温も下がり、震えてくる。
 このような状態の中で2時間ほど待つ間、レポーターの坂口さんが不安そうに、「遭難するんじゃないやろか? 霊地のたたりではないか」と話し掛けてきた。
不安感が増さないように、「大丈夫ですよ」と返事する。
ただ私も過去にこんな経験したことがないので、正直言って何ともいえない思いであった。

Itijyouji_web
雷の閃光の刹那、Y.K氏の瞼に焼き付いたという一乗寺全景のスケッチ

 じっと雨の上がるのを我慢していると小雨状態になってきたので、取材を中止し、山を降りることにした。私はカメラの三脚を担いだが、肩にずしっと重さがきた。カメラマンの藤田さん、重い三脚カメラを移動しながらの取材、ほんとに大変だったことを痛感した。

 無事に下山し、川上公民館まで車に同乗させてもらった。
後日、私の自宅で古代巨大寺院の謎について取材することを打ち合わせ、この日は解散した。



 9月6日(木)の取材の日がやってきた。

 自宅で雑用をしながら待機していると、チャンネルOの坂口さんより午後2時頃行くとの連絡が入ったので、取材の時間までに今日の雑用をすませた。
 午後2時になり、スタッフの車が到着。坂口さん、藤田さんは車から降りるなり
「先日は、大変でしたねと」の挨拶ではじまり、私も「ほんとに、大変でしたと」言葉を交わした。今日は室内での取材なので、機材を家の中に運ぶことから始まり、照明、カメラのセットが完了し、取材の開始である。

 撮影が始まり、レポーターの坂口さん「この前は、残念でしたね」私は、答えた「ほんとに残念でした。今まで、何回も登っているがあんなこと初めてです」貴重な体験をしたことも話した。

 私は、坂口さんの問いかけに答えていく。


「あの杉林の先には、寺院の遺跡みたいなもは残っていないのですか?」

「残念ながら遺跡らしきものは残っていません。・・・残っているのは、“庵のだら”や“尾だら”、蓮華の跡といわれている“堀さこ”など、寺院にちなんだ場所の呼び名だけです。発掘調査がされておらず、確実な証拠がないため伝説の寺院ということになっています。」


「その寺院は、どれくらいの由緒があるものなんですか?」

「代々伝わる“宝尾縁起”に書かれていることなんですが、当時の天皇がたびたびこの地を訪れたそうで、大変由緒あるお寺だったことが書かれています。また、建立されたのが、仏教が日本に伝わったとされる6世紀頃だったと伝わっています、寺院の存在と建立時期が実証されれば、仏教の上陸地がこの若狭であると言えますし、日本最古の寺院だった可能性もあるわけです。」

それほどまでに繁栄した巨大寺院が、なぜ衰退し消えてしまったのですか?

「これも“宝尾山縁起”に書かれています。平安初期に空海が真言宗を布教した時、欽明天皇以来の寺院である一乗寺が、高野山と激しく対立したことで朝廷に見放され、山を追われたそうです。その時に多くの霊物、霊画、宝物が野ざらしになり、土と化したため遺跡が何ものこらなかったそうです。
これにより、飛鳥、白鳳時代から栄えた宝尾の摩野尾山一乗寺はおよそ250年の歴史に幕を閉じたそうです。」

Mirror
F本家に伝わる鏡(郷土資料館蔵)

Butu_08 Butu_07 Butu_02
宝尾に伝わる仏像群の一部(郷土資料館蔵)

 かつて大きな勢力を誇ったとされる巨大山岳寺院、“摩野尾山一乗寺”。
その存在を裏付けるものの一つとして、一乗寺に安置されていたと言い伝えが残る仏像が、今でもおおい町郷土資料館に数点展示されています。また他にも各地に宝尾山より移ったとされる仏像が存在しています。
 今は杉林が広がるだけとなった宝尾山遺跡。厳かな気配が漂うこの地には「巨大山岳寺院」と言う太古のロマンが、今でもひっそりと息づいているのです。

こうして、若狭の伝説「消えた古代山岳寺院の伝説」の二度に渡る取材が終了しました。
いつの日か宝尾遺跡が調査され、伝説が実証されることを期待して・・・。


(Y.K)



宝尾の遺仏とされる仏像には鎌倉・室町期以後のものもあり、寺院の廃絶後も信仰は宝尾にひっそりと残っていたようです。また江戸時代終わり頃までは権現の参道横あたりに、再建された釈迦堂が残っていたことが記録や遺物からうかがえます。それも維持が難しくなってしまったので、在家にあるべきでない大きな仏像を金剛院へ移したといわれています。
おそらくは波切不動が宝尾から勧請されていったという伝承から、どこかに移さなければならないなら不動さんと一緒が良い、となったのではないでしょうか。
そしてこのことがあったからこそ、言い伝えにある“
正月の挨拶に金剛院へ行った際に上座に通された”という待遇を受けたのではないかと思っているのですが・・・。

このエピソードについては、また別の機会に。(久右衛門)

 

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.mitelog.jp/t/trackback/403720/19285883

消えた古代山岳寺院の伝説地に登る(2)を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿