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2009年1月16日 (金)

宮当講(みやのとうこう)

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川上では昔、1月に宮当講という行事が行われていました。

宮当講とは、村にに飛鳥時代より受け継がれてきたと伝わる、神様をお祀りする儀式です。正月の6日に寺の本堂に集まって講を行なうことを寺堂講、12、13日の年行事振舞やお宮参りのことを宮当講といったそうです。

儀式は当初四座二十四名の宮座を有する講員によって運営され、近年まで厳粛に引き継がれてきたといいます。その間に講員は四十八名となっていました。しかし昭和4〜5年頃、三組が抜けたのを皮切りに年々簡素化され、現在では行事は中断されたままとなっています。

この儀式は当番や年行事の負担や出費が大きく、出征や昭和28年の13号台風による水害、また戦後の生活や意識の変化によって維持が困難になったと聞きました。

宮当講の起こりは、古来の伝承をもとに昭和9年に書かれた「宮当講由来」に書き残されています。

かいつまんで紹介すると、

 

天武天皇の御代の頃、飢饉や疫病が続き人身御供を出すほどに村人は苦しんだ。
困窮した村人たちは六苗六ヶ寺と云われたそれぞれの檀寺で17日間祈願し、さらに時の宮寺であった新福寺の高僧釈導蔵から神様をお祀りする儀式や作法の指導を受け、その指示どおり神様をお祀りしたところ災厄から救われることができた。
以来この作法にしたがって毎年儀式を行なってきた

 

という由来に加えて、儀式の内容や様子などが毛筆で記されています。


この中の興味深い記述に“六苗六ヶ寺”という文言があります。
六ヶ寺とは何なのか。
六苗は右近、左近、弥太夫、左太夫、権之亟、軍之亟の六戸であったと云われていますが、現在のどの家がそれに当たるのかは明らかになっておらず、川上の始まりを匂わすようなこの文言の詳細はわかっていません。

 

宮当講は祖父の世代で途絶えました。儀式の簡略化や中止で当番や年行事の負担は減り、豊かとは言い難かった当時の生活もいくらか楽になったことでしょう。その是非についてはともかく、講を勤められた世代の多くが亡くなられた今、「宮当講由来」が当時書かれていなかったら、今の世代以降はその概要すら知ることは難しかったでしょう。この行事についての記憶は、そう断ずることができるまでに忘れられ、風化しています。

由来が記されたのは昭和9年、講が簡略化されていったのもその頃です。
この文書が儀式を後世に伝えるために記されたものであるとするなら、現在よりも信心深い人がずっと多かった当時、この決断を下さざるを得なかった先人の苦渋の思いが由来には込められている、というと大げさでしょうか。

時は移り… 区では現在、この先ますます顕著になるであろう高齢化と過疎化に向けた体制作りの仕上げをされています。

ささやかな変化の時期が、再びこの集落に訪れたと言えるのではないでしょうか。

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