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2009年3月 2日 (月)

山腹を這う水路(大井根)

言わずもがなのことですが、米づくりには大量の水が必要です。
その水を得るために先人は様々な工夫を凝らし、惜しみなく労力を注ぎ込んできました。ここ川上区においては、「大井根」と呼ばれる全長1Km余りもある山中の用水路がその最たるものだと言えます。

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落葉と土砂が積もり山道の様になった大井根跡(博城山腹)


大井根は新鞍谷の西谷口から取水し、神水・博城(はかましろ)の山腹を高巻きにして大柳まで長い間谷水を運んできました。
この水路は、400年程前にこの地に移り住まれた治右門家の先祖、大柳権之守が考案し、工事の指揮を執ったと云われています。夜間の山腹に提灯を持った人を何人も並ばせ、その灯を谷の向かい側、通称「忠の八ヶ久保の段」から大柳権之守が目測して測量が行われたということです。
立地とその延長から、水路の開削に多大な労力が必要だったことは想像に難くありません。工事はおそらく何年にも渡るものだったでしょう。

開削後も維持・管理は一筋縄ではいかなかったようです。春、田んぼに水を引くための井根仕事だけで二日がかりでした。一日目は素掘りの水路に積もった落葉や土砂を取り除く作業、二日目は痩せてしまった水路肩を補強したり、水路の修復のために費やされました。

散々苦労して水を通しても一週間もすると水の量が半減していきます。漏水しやすい素掘り水路の上、沢蟹などの生き物が水路に穴を開けるためで、定期的な見回りが欠かせませんでした。また途中いくつも小さな谷や沢を横断しているため、大雨後の復旧は特に大変だったと思われます。明治3年と昭和28年の水害は特に酷く、昭和28年の13号台風では、いくつもの箇所がコンクリート二次製品で修復されました


この様に毎年苦労を重ね、何代にも渡って大井根は大切に守り続けられ、水利は現代まで受け継がれてきました。
水路がようやくその使命を終えたのは昭和57〜58年頃の耕地整理の時です。継ぎはぎだらけの大井根は新鞍林道地下に埋設されたパイプラインに置き換えられ、現在はコックを捻るだけで新鞍谷の清水がほとばしり出て来ます。
二日がかりの大仕事だった井根仕事も、ようやくこの時から二時間程の作業で済むようになったのです。


(ふるさと探訪 第二回 三谷義太郎氏:新鞍谷の記述と、その後の聞き取りを元に構成)


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