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2009年1月23日 (金)

馬こかしの伝説

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天然の要害 逆谷

室町時代、一色五郎守邦の城があったという逆谷は、永谷坂の分水嶺となる京都府との県境近くにあります。そこは「馬こかし」と呼ばれる絶壁がそびえ立つ天然の要害です。(MAP:C-4)

ある年の正月、酒宴の場へ白羽の矢が射込まれ城の柱に突き立った。周囲を探すと一頭の馬が絶壁の下で倒れていたそうな。以来ここを馬こかしと呼ぶようになったといいます。

逆谷の読み方は、昭和46年発行の郷土史大飯では“サカサマ谷”、昭和6年発行の大飯郡誌では“サカ谷”とルビが振ってあります。“サカサダン”“サカマダン”と呼ぶ人もおり色々です。

 
 
この城塞については、これといった遺構が確認されているわけでもなく、佐分利村小誌に「川上字永谷山林内の擂鉢形をなせる約三百坪の場所なり…」と記述が残るのみ。馬こかしの背後はすぐ谷となっていて、県道から見上げる絶壁は実は案外薄い岩の峰です。その峰と背後の峰に挟まれた谷の最上部は勾配も緩く、すり鉢のような地形といえるでしょう。
ちなみにこの谷は本流である永谷川と真逆の方向に流れており、逆谷の呼び名はそこからついたのではないでしょうか。

現在このすり鉢地形周辺は植林され、かつての様子を窺い知ることはできません。山仕事にも使われたと思われる道が稜線に沿ってわずかに残り、峰の先端付近で切り欠いたような地形や、小さな石積みの残滓が確認できるのみとなっています。

 

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絶壁上にあるすり鉢地形

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稜線上の道
樹木があるせいでさほど恐怖感はありませんが、
両側はかなり切り立っていて蟻の戸渡りっぽい状態です

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道の脇に残る石積み

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倒木のあと? 稜線ぞいの道の脇が切りかかれている

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稜線の先端部 ここを下るとズガニ塚の裏へ出る

 
 

馬こかしについて郷土史には次のように紹介されています。

逆(サカ)谷

川上字永谷山に存り元龜以前一色五郎守邦此所に城を築きて要害を守り居たるも石山城主武藤氏に滅ぼされたりと云ひ傳ふ當區杉左近家は當時の家老職なりしと。(福井県大飯郡誌)

馬こかしの伝説

府県境永谷峠の一角、谷水の分かれて逆になるあたりに「逆谷」というところがある。室町中期守護一色時代に、一色五郎守邦という武士がここに城を構えていた。城は国境要害の地で、山上に五畝歩ばかりの削平地が残っているし、その下方には切立った「馬こかし」という絶壁を控えている。ある年正月の酒宴の場へ白羽の矢が飛来して、城の柱に突立った。矢の来た方をさがすと、一頭の馬が絶壁の下にたおれていた。以来ここを馬こかしということになったという。更に二十年ほど遡った1361年には、仁木三郎義住が小浜に居た守護細川清氏を攻めるために、この逆谷を足溜りとしたことは、太平記にのっていて有名である。(郷土史大飯)

一色五郎守邦

川上区字永谷、分水界に近く逆(さかさま)谷と称する要害の地があり、一色五郎守邦の居城があったと伝えられ、数十メートルの絶壁がそばだち、人呼んで馬こかしという。

佐分利村小誌に「川上字永谷山林内の擂鉢形をなせる約三百坪の場所なり…」と右城砦について述べている。
若狭国誌(野木山の註)に「応安四年夏五月国人安賀、鳥羽、三宅等の荘に乱おこす。守護代一色信博の子詮範及び守護代、佐分、本郷、青、神崎、三方、佐野、多太、和田等の郷村の兵士を率い野木山に陣す。二十六日昧爽野木山を下って玉置河原に戦うこと本国守護代記に見ゆ」とあり、五郎守邦の名は明記されていないが無関係とはいえない。

五郎守邦が史上に残るのは、若耶郡談附録の若狭国税所今富領主代々次第・若狭郡県志・若狭国誌・若狭国中興領主代々次第等で、川上の一色氏は石山城の武藤上野介に滅されたとしてあるが、武藤氏に亡ぼされたのは五郎守邦の子孫ではあるまいか。
なお川上杉左近家は一色五郎守邦家の家老であったと伝えられている。(郷土史大飯)

 
 
太平記に逆谷の名が出ている部分は次の箇所です。

 

太平記巻第三十六/頓宮心替事付畠山道誓事

若狭国は、相摸守近年管領の国にて、頓宮四郎左衛門兼て在国したりければ、小浜に究竟の城を構て、兵粮数万石積置たり。相摸守此に落付て、城の構へ勢の程を見に、懸合の合戦をする共、又城に篭て戦共、一年二年の内には輙く落されじ物をとぞ思はれける。去程に尾張左衛門佐氏頼、討手の大将を承て、北陸道の勢三千余騎を卒して、越前より椿峠へ向ふ。仁木三郎搦手の大将を承て、山陰道の勢二千余騎を卒して、丹波より逆谷へ向と聞へければ、相摸守大に笑て、「穴哀の者共や。此等を敵に受ては、力者二三人に杉材棒突せて差向たらんに不足あるまじ。先敦賀に朝倉某が先打にて陣を取たるを打散せ。」とて、中間を八人差遣さる。八人の中間共敦賀の津へ紛入、浜面の在家十余箇所に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。朝倉が兵三百余騎時の声に驚て、「すはや相摸守の寄たるは。定て大勢にてぞ有らん。引て後陣の勢に加れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引ければ、相伴兵三百余騎、馬物具を取捨て、越前の府へぞ逃たりける。

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